人的資本経営―不確実性への向き合い方
人的資本
本コラムは、「人的資本可視化指針(2026年改訂)を中小企業視点で読み解く」の続きです。
前回は、2026年に改訂された「人的資本可視化指針」を手がかりに、中小企業が人的資本経営をどのように捉え、経営戦略と連動した人材戦略を作るステップについて考えてきました。今回は戦略を実行する上での「不確実性」に焦点を当て、それにどう向き合うべきか。考えをまとめていきます。
「環境」の不確実性
指針の中でも、外部環境変化の不確実性は述べられています。例えば、生成AIの急速な進展や人口減少など。そうした経営環境や業務プロセスが大きく変わる中で、人材ポートフォリオや人材戦略を質・量両面から不断に見直すことの重要性についても述べられています。
また、望ましい数字が出ていない時期でも、原因と対応策とともに開示することは投資家の目線から有効だ、とも書かれています。(平たく言えば、外部環境変化によって、当初描いた戦略・計画通りにいかないことはある。それでも、要因調査して対策を考え、環境適応しながら粘り強くやれ。そしてそれも発信しろ。という趣旨ですね)
なお、指針でふれられている不確実性とは “外部環境”という観点ですが、もう一つ、経営者や人事が現場で感じる不確実性もあるでしょう。
「投資対象そのもの」の不確実性
外部環境との兼ね合いもありますが、人材採用が予定通り進むかは分からない。また、折角採用しても、すぐに辞めるかもしれない。育成に投資しても、効果にバラつきがあるかもしれない。
人材へ投資をしたとしても、明確に望むリターンが得られるかは分からない、という不安は経営者や人事責任者は感じるところではないでしょうか。
そうした、“投資する対象そのものの、効果のリターン”もまた、不確実性と言えます。
だからこそ、「あるべき姿を鮮明に描け」⇒「描いた通りにいかなかったら、どう軌道修正すべき?」を考えておく必要はあります。
人材投資は「研究開発投資」に近い
ここまでは経営・組織を取り巻く“不確実性”を確認してきました。では外部環境も、投資対象も不確実さがあるなか、どのように人材に投資すればいいのでしょうか。
前提ですが「設備投資のように、人材投資もリターンがある程度予測できるもの」と思いこんでしまうと苦しくなると考えます。
機械等の設備投資判断は、そう大きく外れないでしょう。もちろん、需要予測が下回り、稼働率が計画を下回る結果、本当に必要な投資であったか、が問われることはあります。ただし、機械そもそもの“生産能力(ケイパビリティ)”自体は、不良品でない限り、期待値範囲内のはずです。
一方、人材投資(組織活性含む)の概念で近しいのは、研究開発投資ではないでしょうか。R&Dも当たるかどうかは分かりません。しかし「当たらないかもしれないから、やめておこう」とはならないでしょう。
外れる前提も含み、常にプランB・Cも含め、並行的に投資することが重要でしょう。
5.不確実性への打ち手を考えていく
不確実性は仕方ない。としても、企業はどのように人材投資を進めればよいのでしょうか。ここからは、不確実性ごとに具体的な打ち手を考えていきます。
打ち手①:「採れるか分からない」→ ポートフォリオの埋め方を一本足にしない
例えば、前回例に出した通り、「設計の経験者採用をしたい」と目標設定した場合。
当然、経験者採用を最優先で動く必要はあります。ただし、採用は時の運もあります。めぐり合わせの不確実性も踏まえて、外部企業やフリー人材との提携を模索する・・・など。採用・育成・外注を含めポートフォリオの埋め方の選択肢を、最初から複数持っておくこと自体が、調達リスクへの備えになります。
打ち手②:「辞めるかもしれない」→ 個人に残る投資と、会社に残る投資を分けて考える
人材投資には2種類あると考えます。
- 個人に紐づく投資例:エース一人に注ぎ込む教育。辞めたらゼロになる
- 組織に残る投資例:手順マニュアル化・動画化、多能工化、工程標準化。人が辞めても会社に資産が残る
この区別を意識することも大事でしょう。例えば、ベテランの技能を動画に残すなどは、育成投資であると同時に、ベテラン人材離職(代謝)リスクへの保険にもなります。
もちろんエース一人につぎ込む「個人に紐づく投資」も重要です。将来有望な幹部候補には、投資的経験付与、特別な教育機会も必要です。例えば、海外拠点の工場設立ミッションのリーダー職務を与え、合わせて経営・語学・マネジメントスキルの教育機会をセットで与える・・・など。
なお、個人に紐づく投資の上では、「投資回収=リテンション」施策を考える必要もあります。
例えばキャリアステップの見せ方、“面白い”仕事を与えていくこと、等級・評価・報酬関係制度(賃金のみならず表彰・報奨、退職金制度、上場企業であれば株式報酬等含めた金銭報酬)、関係性構築支援や働き方の柔軟性改善などの非金銭報酬面含め、投資の回収期間を延ばすリテンション施策も、様々な角度から考えていくことが重要です。全社員に一様のリテンション施策を考える必要はなく、会社の業態・目指す組織の姿、対象層によって区分して考えていけるとベストです。
打ち手③:「効果が分からない」→小さく測る
組織・人材への投資に関しては、分かりやすい効果測定が難しいと考えられます。
どのような投資が功を奏し、あるべき組織の姿に近づいたか?組織の生産性が高くなったか?などの問いに答えを出したくても、コントロールできないもの含め変数が多すぎて、何が利いたか分からない。また時の流れによって測定条件・環境条件も異なり明確な“答え”が示しにくいものです。また、必ずしも即効性があるものばかりではありません。
その上でも、小さくても測定可能な指標で進捗を把握することに、意味はあると考えます。
例えば、一人当たり生産性が上がらない点が課題、とりわけ初級者の段取り時間がかかっている⇒若手2人に技能講習を試し、作業時間が縮んだら全社員に広げる。効果が見られなさそうであれば、別の投資施策を考える・・・など、小さな実験レベルで落とし込めば「全く効果が読めない」ということもないでしょう。また、取り組みをしないことには何も始まりません。あるいは、いま現状の“ムダ“をどう削減するか、考えて改善しなければ現状から何も変わりません。「測れないから、何もしない」が、一番高くつく選択のはずです。
投資しない未来は、予測できる。また、リターンの上振れもあるはず
投資した場合の結果は不確実なものを含みます。しかし、何にも投資しなかった場合の結果は、おおよそ予測できるでしょう。
まず、貴社の人員構成を整理して、眺めてみてください。
現在のベテランは確実に歳をとり、いずれ退職していきます。また、働き手(特に若い世代の人口)は統計の示す通りに減ります。ただ、皆年老いていくのみで、事業を継続していくことさえも難しくなります。
当然ながら、何も策を講じなければ、きっと今の延長上での成り行きの未来にしかなり得ません。
なお、機械は購入した瞬間から減価していく一方ですが、組織や人は経験・教育を積んで価値や能力が増すことがあります。いい職場環境を築き、チームでの議論が闊達になれば、今までになかった新しい開発アイデアが生まれることもあるでしょう。
組織や人材の不確実性には、上振れもあります。だからこそ投資のしがいもあるのではないでしょうか。
6.語ることの重要性
どんな会社にするのかを決めたら、そのために必要な人を計画的に採り、育て、報いるか。組織間関係性をどうしたいか。組織・人事目標を明文化する。まずはA4一枚ペーパーでもいいので、「人にどう投資していきたいのか」のストーリーを、定量・定性的に整理する。
個人に紐づく投資、組織に残る投資も棲み分けつつ、計画通りにいかない前提で、逃げ道と保険まで設計しておく。
そして、その投資が本当に会社を強くしたのか、定期的に小さくても実行と検証を繰り返し、また目標・計画を毎年見直す。
前半のコラムで書いた通り、そうした人的資本の考えを発信することは、時流として対応せざるを得ない外圧側面もありますが、人材確保・採用対策上でも重要性があると述べました。
ただ、本当に大事なことは、今ともに会社を動かしている社員に向けても、それが正しく落とし込まれていて、本当に組織が進化している、従業員がイキイキ前を向いて働いている、その上で会社の業績が向上している・・・など“質が伴っている”ことではないでしょうか。
既存社員との信頼関係を築き、組織と事業を成長・変革させるためにも、経営が「人への投資」をどのように考え、何を実行しようとしているのかを説明することには、大きな意味があると考えます。
人事制度の周知・説明もその一環ですが、制度の仕組みだけでなく、なぜその制度なのか、会社は社員にどのような成長や貢献を期待し、そのために何を支援するのかまで伝えることが重要です。
中小企業の経営者と話していると、社員のことを考えて賃金や教育、福利厚生、働く環境の改善に取り組んでいます(予算に限りはあるけれども、良い環境整備していこうと思う経営者は多い)。
一方、社員と話をしていると、意図が社員に十分伝わっていない、と感じることもしばしばあります。視座の違い、知り得る情報の範囲の違いがあるのも当然ですが、経営者からすれば、「これだけ処遇や環境を改善しているのに、なぜ不満がなくならず、意欲も高まらないのか」と思うこともあるでしょう。
しかし、経営者が人材への投資だと考えている施策も、その背景が説明されていなければ意味がありません。「うちの会社は賞与が少ない(その分月給が高い、福利厚生的手当が厚い)。友達の会社は賞与●か月らしい、うらやましい」「忙しいのに、なんか研修をたくさん受けさせられている」…といった“隣の芝生青い”感覚で、受け身&施されスタンスで「会社から投資されている」認識が持てないケースもあり得ます。
経営方針と人材投資の関係が見えなければ、社員が自分に何を期待され、どのような能力を高めれば会社の成長に貢献できるのか、自律的に考え実行していくことは難しくなります。
反対に、そのつながりが言語化されれば、処遇、教育、福利厚生などの個々の施策は、単なる制度の寄せ集めではなく、「会社が社員をどのような存在として捉え、何を期待し、何を支援しようとしているのか」を示す、一貫した経営メッセージになります。
人材投資は、実施するだけで自動的に意味が伝わるものではありません。社員に主体的な成長や貢献を求めるのであれば、会社側もまた、何を目指し、なぜ人に投資し、社員とどのような関係を築こうとしているのかを、断続的に語る(あるいは語り合う)ことが、本当の意味での人的資本経営には肝要でしょう。
※コラムは執筆者の個人的見解であり、人事戦略研究所の公式見解を示すものではありません。
