人的資本可視化指針(2026年改訂)を中小企業視点で読み解く
人的資本
「人的資本経営」「経営戦略と人材戦略の連動」。昨今、頻出ワードとなっていますが、中小企業の経営者からすれば、「上場企業が投資家向けに資料を作る話。うちには関係ない」という見方をもつ方もいらっしゃるかもしれません。
2026年3月、内閣官房・金融庁・経済産業省は「人的資本可視化指針」の改訂版を公表しました*1。この指針は、確かに上場企業の情報開示を強く意識した指針です。なお、指針そのものに法的拘束力はなく、「何を開示すべきか」を定める開示府令に対し、「なぜ・どう開示するか」の考え方を示すガイダンスという位置づけです。
難しい説明を抜きにすれば、中身は案外シンプルです。
人的資本情報を推奨された開示項目に合わせて単に列挙するに留まらず、
・これから会社をどうしたいのか
・そのために、どんな人が何人必要なのか。どんな組織があるべきなのか
・今の社員との間に、量・質どのようなギャップがあるのか
・そのギャップを埋めるため、採用、育成、配置、賃金に、どのように投資・計画をたてるか
これらを連動させて経営者が考え、説明できるようにしましょう、という話です。
この記事では、この指針をかみ砕き翻訳しつつ、中小企業は人的資本経営をどう考えるべきか、を考えていきます。
1.そもそも人的資本とは何か。指針改訂版は何が変わったのか
本質的に「人的資本」とは
社員の知識、技術、経験、判断力、意欲を、会社の価値を生み出す元手として捉える考え方です。
例えば、ベテラン職人の加工技術。技術課題に対応するアイデア発想力。不良原因を見抜く経験。若手に教える力など。これらは決算書に資産として明確に現れませんが、企業の競争力を左右しています。
「うちは人でもっている会社」という認識は、人的資本経営の重要な出発点です。その認識を、必要人材の定義や採用・育成・配置・処遇の計画に落とし込むことが求められます。
では、今回の改訂で何が変わったのでしょうか。大まかに経緯を整理すると、以下の通りになります。
・2020年9月:経済産業省が「人材版伊藤レポート」公表。「人的資本経営」「経営戦略と人材戦略の連動」という考え方の源流
・2022年5月:「人材版伊藤レポート2.0」公表。連動を実践するための視点とアイデア集を提示
・2022年8月:初版の「人的資本可視化指針」公表。伊藤レポートが示した人的資本経営の”開示”の側面を担う位置づけ
・2023年:有価証券報告書での人的資本開示が義務化
・2026年2月:開示府令等の改正(2026年3月期の有報から適用)。経営戦略と関連付けた人材戦略、それを踏まえた従業員給与等の決定方針、平均年間給与の増減率の開示が義務化*2
・2026年3月:本指針の改訂版公表
改訂理由としては、国際的な開示基準を踏まえることも挙げられていますが、経営戦略と人材戦略の連動という観点で、主な問題意識が2点挙げられています。
まず、初版の指針は「経営戦略と人材戦略の連動」の重要性を謳いつつも、具体的にどう連動させ、どう開示するかのステップまでは示していなかったこと。次に、投資家側から、「経営戦略の実現と、それに紐付く財務指標の改善に必要な人的資本投資が行われているのか、開示からは判断できない」という指摘があったこと。
「連動が大事」だという指摘自体は、伊藤レポート以来くり返されてきました。今回の改訂は、その手順を与えたものです。
ところで、そもそもなぜ国はこのような指針を出すのでしょうか?
数字で見る危機感
指針の前半には、以下のような国の危機感を示すデータが並んでいます。
①日本企業は“人”にお金を使っていない
②企業価値の源泉が「形のない資産」に移っているなか、日本の投資は依然として低い
③人材需給のミスマッチが起こる可能性
④専門スキルが賃金に反映されにくい
色々と列挙されていますが、国のメッセージを筆者なりに超意訳すると「人材については毎年の人件費(コスト)としてしか考えていない。人材需給を踏まえた投資も十分に行われていない。人口が減る日本で、それでは企業の持続的成長が難しい」という趣旨と理解しています。
2.「上場企業しか関係ない話では?」そうでもない理由
有価証券報告書での開示義務があり、確実に対処が必要なのは、確かに上場企業(注:正確には、上場企業を含む有価証券報告書提出会社)に限定された話です。
指針に直接そう書かれているわけではありませんが、制度全体を眺めれば、上場企業に対して、内部留保にとどめず人材投資へ回すよう促す。その人的資本指標や人的資本投資の妥当性を投資家に評価させる。市場の力で非効率な企業を淘汰し、企業の金と人を強制的に循環させ、日本企業の価値を上げ経済成長させよう・・・という経済施策の一環であると筆者は推測します。
ただし、「開示は上場企業だけの義務」とも、すでに言い切れなくなっています。非上場でも、常時雇用する労働者が101人以上の企業は、改正女性活躍推進法により、2026年4月から「男女間賃金差異」と「女性管理職比率」が情報公表の必須項目になりました(100人以下は努力義務。法令解説については厚労省等HP*3をご覧ください)。なお、300人超の企業には、育児・介護休業法に基づく男性育休取得状況の公表義務もあります(2025年4月〜)。
従業員規模によっては、人的資本の「見える化」はもう他人事ではありません。
そして、法的義務の有無にかかわらず、指針では中小企業が存続するために無視できない「労働市場の関心」にも触れられています。
・学生や転職希望者は、労働環境や企業風土に加えて、経営戦略と人材戦略が連動しているかにも強い関心を持つ
・従業員や転職希望者のうち3割強は、有価証券報告書や統合報告書といったIR資料まで参照している
・エンゲージメントや育成方針の情報提供を行う企業は、新卒・中途とも採用充足率が高い傾向にある
つまり「人的資本開示」や「人にどう投資しているか」は、投資家云々だけの話に留まらず、人材確保・採用対策上でも重要性があると言えます。
3.自社に置き換えると、具体的に何をすべきか
指針が示す経営戦略と連動した人材戦略を作る3ステップ
具体的な手順を簡単に要約すると、
1.経営戦略の中で人材の重要性が大きい部分について、あるべき組織・人材の姿を描く
2.あるべき姿と現在の組織・人材を比べ、ギャップを埋める施策を整理する
3.経営への影響度をもとに優先順位と時間軸を付けて、人材戦略として決める
そして、できる限り測定可能な指標と目標を設定して進捗を確かめ、内容(目標・戦略・計画)を不断に見直せ・・・とのことです。
工場の経営に置き換えると、つまりどういうことでしょうか。
求められる人材の質・量の観点を例にとると、例えば社長が「5年後までに、受託の部品加工だけでなく設計提案までできる会社になりたい」と決めたとします。
【ステップ1】
【ステップ2】
【ステップ3】
この順番が大事です。
離職率が○%、女性管理職比率が○%、平均年収が○万円といった人的資本指標情報を開示すること自体が重要なのではありません。無目的に「OFF-JT研修○回」「エンゲージメント平均○ポイント向上」といった目標を置くことも同じです。法定項目の公表は当然の前提として、その先の話です。順番の問題です。
「ありたい会社になるために(経営戦略の実現と、それに紐付く財務指標の改善含む)⇒具体的なKPIは何か⇒その目標達成のためにどのような施策を講ずるのか」。このストーリーが整理されているか。それが人的資本経営の本質です。
そのため、投資なら何でもよいわけではありません。資金は限りあるものですから、経営課題から逆算した「質の高い」投資が求められています。
4.不確実性とどう付き合うか
人材への投資の重要性、経営戦略から人材戦略への連動ステップや計画の理解はできるとしても、こうした疑問も生まれます。
「設備・機械なら投資回収の見通しを立てやすい側面がある。いくらで購入できて、フル稼働でどのくらい生産でき、何年で償却するか、その投資対効果が計算できる。 しかし、人は違う。まず、予定通りに採れるかどうか分からない。育てても、辞めるかもしれない。同じだけ育成に投資しても、同じだけ伸びるとは限らない。果たして、計画通りにいくだろうか」
その通り、不確実な要素は多分にあります。その不確実性に、どう向き合うべきかについては、次回の記事で掘り下げていきたいと思います。
参考URL:
*1:内閣官房「「人的資本可視化指針」の改訂について」
https://www.cas.go.jp/jp/houdou/20260323.html
*2:金融庁「企業内容等の開示に関する内閣府令及び特定有価証券の内容等の開示に関する内閣府令の一部を改正する内閣府令」等の公布について(2026年2月20日)
https://www.fsa.go.jp/news/r7/shouken/20260220/20260220.html
*3:厚生労働省「女性活躍推進法特集ページ」
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000091025.html
※本記事は、公開されている行政資料に基づく一般的な情報提供を目的としています。法令上の義務や適用関係は、企業規模、上場・非上場の別、有価証券報告書の提出義務の有無等によって異なります。個別の対応に当たっては、最新の法令・行政資料をご確認ください。
※コラムは執筆者の個人的見解であり、人事戦略研究所の公式見解を示すものではありません。
