リスキリングで人材流出の危険?

リスキリングに注目が集まっています。リスキリングとは、新しい職種や事業分野に適応するために新しいスキルを身につけることです。大企業を中心とした、「社員全員にDX教育を強化」といった動きも、その一環でしょうか。政府も、助成金など、さまざまな支援策を打ち出しています。

しかし、どうも違和感を覚えざるを得ません。

たとえば、通勤電車に乗っていると、中年のビジネスマンがスマホゲームに集中している場面を、よく見かけます。もちろんゲームがダメということはありませんが、「隣で参考書を読んでいる高校生は、どう感じているんだろうか」と、要らぬ心配をしたりします。

 

育成投資しない日本企業と日本人

日本生産性本部が2020年12月に発表した「日本企業の人材育成投資の実態と今後の方向性」に関する報告によれば、日本企業では人材育成に対する投資が、長期的な減少傾向にあります。また、GDP比で見た人材育成投資額が、主要国の中でも極めて低い水準にとどまっていることが指摘されています。

一方、日本人は他国に比べて読書や自己育成に消極的であることも、いくつかの調査結果で示されています。たとえば、パーソル総合研究所が2022年に実施した「グローバル就業実態・成長意識調査」によると、日本では社外での自己啓発について「特に何も行っていない」と回答した人が52.6%と、18カ国・地域中、断トツで最も高い割合を示しています。

要するに、日本は「会社も個人も、育成や自己啓発への投資に極めて消極的な国」ということになります。これが、戦後の焼け野原から、奇跡の経済成長を成し遂げ、一時は世界第二位の経済大国にまで昇りつめた日本の現状です。バブル崩壊後の「失われた30年」、「世界でほぼ唯一、長年にわたり賃金水準が上がらない国民」を生み出した、大きな要因ともいえるでしょう。

 

さて、リスキリングに話を戻しましょう。これまで人材育成投資を怠ってきた企業で、自己投資を怠ってきた会社員に、突然リスキリング投資を行う。はたして、これは有効なのでしょうか。

 

アップスキリングの重要性

アップスキリングは、現在の職務においてより高度なスキルや専門知識を習得することを意味します。アップスキリングは、既存のスキルセットを強化し、拡張するプロセスです。

アップスキリングは、従業員が既に持っている知識と経験を活用するため、一般的にリスキリングよりもコスト効率が良くなります。また、すぐに今の仕事に活かせるため、企業にとってもリターンを実感しやすくなります。既存の社員をアップスキルさせることで、企業は新しい人材を雇うコストやトレーニングの時間を節約できるのです。

 

リスキリングは労働移動が政府の目的

もちろん、短期的にはアップスキルが効果的でも、中長期的にはリスキリングが重要、という意見もあるでしょう。技術の進歩は加速し続けており、今日必要とされるスキルが明日も同じであるとは限りません。

しかし、今の仕事におけるスキルアップを怠っている人に対して、リスキリングが効果的であるとは、どうしても思えません。たとえば、チャットGPTなど生成AIも便利ですが、仕事ができない新人の間に使ってしまうと、アウトプットの真偽を判断することもできず、AI頼りの人材になってしまう懸念があります。一方、これまで「仕事ができる人」であったとしても、AIなど新しい技術を避けることで、時代遅れとなってしまう可能性も十分にあります。

やはり、両面が必要ですが、「いきなりリスキリング」ではなく、「アップスキリングの上にリスキリング」が本道なのではないでしょうか。

また、企業にとっては、政府のリスキリング推進の目的の1つが「成長産業への労働移動」であることも、忘れてはなりません。社員に対して、DXなどデジタル教育を積極的に行い、デジタルスキルが強化された結果、他社に好条件で転職してしまった、というケースも少なからず発生するでしょう。リスキリングは、自社からの人材流出を招く恐れがあることも念頭に置き、昇格制度・異動制度との連動やエンゲージメント向上のための人事施策とも並行して、実施していく必要があるのです。

 

冒頭の中年ビジネスマンの方。もし、ゲーム会社の開発職で、競合他社のゲームアプリを研究していたのだとしたら、申し訳ありません。

 
 

引用1:日本生産性本部「日本企業の人材育成投資の実態と今後の方向性」2020年12月

引用2:パーソル総合研究所「グローバル就業実態・成長意識調査」2022年11月8日

 

執筆者

山口 俊一 
(代表取締役社長)

人事コンサルタントとして20年以上の経験をもち、多くの企業の人事・賃金制度改革を支援。
人事戦略研究所を立ち上げ、一部上場企業から中堅・中小企業に至るまで、あらゆる業種・業態の人事制度改革コンサルティングを手掛ける。

※コラムは執筆者の個人的見解であり、人事戦略研究所の公式見解を示すものではありません。

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